岩井孝之、独身26歳の場合――


 朝起きてテレビをつけ、寝ぼけまなこので歯を磨く。
 1DKのアパートには洗面台はなくキッチンの流しで歯も顔も洗う。
 朝はBGMがわりにテレビをつけるのだが、もうひとつ理由がある。
 それは時間だ。 画面の左上に時刻がわかるようになっている。
 いつもどおりの時間帯、いつもと変わらぬ日常、いつもと同じ行動、
 そう、いつもと変わらぬ朝を迎えたはずだった……

 
 何時だろう? ネクタイを結びテレビの画面をみる。 
 6時58分―― いつも仕事に行く時間には、後2分ある。
 朝のいつもの番組、 あれ? なぜだろう? 
 番組のキャスターにモザイクがかかっている。 しかもみんな……
 アシスタントや若手芸人、みんなの顔にモザイクが?
 モザイクは一時的に視聴率を上げるらしいので番組の意図なのか?
 フッとそう考えたのだが時刻が7時になるのに気づいて慌ててテレビを消し出掛けることにする。

 彼は、この時まだ自分が深刻な事態に陥っていること気づいていなかったのである。



 歩いて5分ぐらいのところに私鉄電車の駅がある。 
 早足で歩く彼の目に飛び込んできたものは、信じられぬ光景だった。
「ど、どうしてしまったんだ?」
 行きかう人の顔、横を通りすぎるその顔にモザイクがかかっている!
 しかもみんなだ! 
 あの人もこの人も、赤い服の人も新聞読んでる人も、みんなみんな、顔にモザイクがかかっている!
 いったいどういうことなのか?
 コンビニのガラスに映る自分の顔にもモザイクがかかっている!
「な、なに?」
 動揺が隠せないままフラフラ歩く。 顔を撫でて何もついてないのを確認する。
 慌てふためく彼は、誰かにぶつかってしまった。
「おい! 気をつけろよ! どこ見てんだ!」 罵声を浴びせ足早に去っていく。
「ひゃい、すんません!」 頭を下げながら今見た顔を思い浮かべる。
 やっぱりモザイクがかかっていた。
 いったい、どうなってしまったのか?
 どう理解したらいいのかわからない。
 こういう時は、彼が一番信頼している先輩に相談するのが得策だ。
 携帯電話で連絡をとる。

「あ、先輩!?」
“何だ? こんな朝早く” 不機嫌そうな声、会社近くに住む先輩は、今起きたばかりのようだ。
「せ、先輩、大変です! みんなの顔にモザイクがかかっていて見えません」
“はぁ?”
「見えないんです! というか見れないんです!」
“おい! お前二日酔いか?”
「いえ、昨日は飲んでません」
“じゃーあれだ、AVでも観過ぎたんだろ?”
「そんなことでみんなの顔にモザイクがかかって見れなくなるんですか?」
“ん~~~、疲れてるんだな、今日はゆっくり休め! 俺が課長に言っといてやる! わかったなぁ! 医者でも診てもらえ! じゃ~なっ!”
 そう言い放ち電話は切れてしまった。
 とりあえず先輩の言うとおり医者に診てもらうため、彼は駅の近くの病院へ急いだ。

 朝の病院は、結構人が多い。
 初診ということもあり窓口に相談してみる。
「すみません、朝起きるとですね。 みんなの顔にですねぇ。 モザイクがかかって見えるんですが眼科ですかね?」
 窓口の女性と思しき人が事務的に答える。
「私の顔にもモザイクがかかって見えるのなら心療内科をお勧めしますよ」
「あ、心療内科ですね。 ありがとうございます」
 受診の紙の心療内科にチェックを入れて氏名と住所を書く、いつも持ち歩いている健康保険のカードと一緒に受付に渡すと心療内科は廊下の一番奥だと告げられた。
 病院でさまざまな人に会うが、やはりみんなモザイクがかかっていた。
 心療内科ということは、精神に問題があってのことなのだろう。
 眼科でそんな病気はないというこのなのだ。
 彼は不安になりながらも尿意をもよおしトイレに向かった。
 ズボンのジッパーをおろし、お粗末なものを引っ張り出し、ようをたす。
 フッーと息をつく、スッキリとして自分のものをしまおうと、お粗末のものを見てびっくりする。
「はぅ! ここにもモザイクが!!」
 便器から離れマジマジと見る。 やっぱりモザイク!
 突然入ってきた人がそんな彼を固まったように見ている。
 それに気づいて慌てて隠す。 妙な光景である。
 見ていた人の顔にもモザイク、彼のあそこもモザイク……
 新たな発見をして意気消沈、チンチンチン……
 はぁ~、情けない。
 彼は心療内科の受付で名前を呼ばれるのを長椅子に腰掛け、肩を落として待っていた。

「岩井さん、岩井孝之さん」 看護婦さんの声がする。
 彼は立ち上がり、案内されるまま勧められた椅子に座った。
 医者らしき人が前にいる。 
「今日はどのようなことで?」 妙に優しげな声。
「あ、今日起きたらですねぇ。 みんなの顔にモザイクがかかっていたんです」
「モザイク? モザイクというと、よくテレビのクイズ番組とかでコマーシャルに行く前に正解と思える品にかかっている、あのモザイクのことですか?」
「そうです! そのモザイクです!」
「碁盤の目のような感じですか? かすんだような感じ、どちらですか?」
「碁盤の目のような感じです」
 医者は、腕を組み 「う~ん」 と唸った。
「今、私の顔にもモザイクがかかっていますか?」
「はい、はっきりとモザイクです」
「顔だけがモザイクがかかって見えないのですね?」
 この質問に彼は少し戸惑うと医者は、感づいたらしく
「何も心配することはありませんよ、みんな打ち明けてください。 隠し事があれば治療に差しつかえます」 とさっきよりも優しい声でそういった。
「実は~」 彼は頭を掻きながら恥ずかしそうに言う。
「さっき解かったんですけどね。 トイレに行った時、自分のアレがですねぇ、いや、アレにもですね、モザイクがかかってまして……」
「アレというのは、男性そのもののことですね?」
「はい~」 頭を掻く速度が増す。
「岩井さん、あなた薬やってます?」
「え? 何の薬ですか?」
「覚せい剤とか、麻薬の類です」
「いえ、まったくやったことはないです」
 少しの沈黙があり
「うん、目を見れば解かります。 信じましょう」
 そういうと医者は肯き、彼にある事例をゆっくりと語りだした。
「以前、患者さんで有名なお笑いタレントがいたんですがね。 彼、結構な上がり症だったんです。 彼は、その時はまだ駆け出しでね。 舞台にあがるのがとても怖かったらしいんです。 で、そんな時、それを見かねた先輩が彼に言ったんです。 『客を客と思うな! かぼちゃと思え!』 ってね。 そう思うことで彼も緊張が解け、上がり症も治っちゃったらしいんですがある問題が起きました。 その日から、お客さんの顔がかぼちゃにしか見えなくなったんです」
「え? それでどうやって治したんですか!?」
 彼は腰を浮かさんばかりに尋ねた。
「岩井さん、大丈夫! 死にはしません」
「へ?」 意外な言葉にあんぐりと口を開く
「次の方どうぞ!」
「いやいや、まだ話が!」
「安定剤を出しときました。 3日分です。 切れたらまた来て下さい」

 なんという医者だ。 なにが死にはしませんだ!

 でも待てよ、そうか…… 死にはしないんだ……
 そう思うと少し気分が楽になる。
 なるほど、腹は立ったが医者のいうのももっともだ!
 ひょっとしたらあの医者は名医かもしれない。
 変に納得して家に帰ることにした彼は、朝からまだ何も食べてないのに気がついた。

 コンビニで弁当を買い、店を出る。
 まったく、朝、ここに映る自分の顔がモザイクなのにはびっくりした。
 今またガラスに映るモザイク顔を見てニヤついてしまう。
 まったく能天気なものである。
 家に帰るのと同時に先輩から電話がかかる。
“おい! 岩井、大丈夫か?” 心配してくれているのだ、ありがたい。
「大丈夫です! 死にはしないらしいので!」
“お前、気でもふれたのかと思ったぞ!”
「いえいえ、頭は大丈夫だと思うんですが、まだ治ってないんですよ」
“はぁ? まだ周りの顔はモザイクがかかっているのか?”
「はい、でもちゃんと医者にも診てもらってきたんで大丈夫です」
“医者は、なんて?”
「あ、だから最初にいったじゃないですか、死にはしないらしいです」
“だ、大丈夫なのか? そんな医者で?”
「大丈夫でしょう? 結構有名な名医かもしれませんよ!」
“まぁ、声だけは元気そうなんで安心したよ”
「心配おかけしました」
“でも、このことは他の者に言うなよ! 課長にはひどい腹痛で2、3日掛かるかも知れないからといってある。 きっと日頃のストレスからだろう。 ゆっくり休めよ”
「ありがとうございます先輩!」
 まったくいい先輩だ、医者よりも医者らしい言葉ではないか、
 彼は感心しつつ、電話を切るとコンビニ弁当をあけ、それをほうばった。

 つづく