先輩・中岡哲也の証言――

 
 精神病院の中は、独特な空気が漂っていた。 受付の女性が案内してくれるのはいいが、いくつもの扉を開けるのにいちいちカードを差込み、そのたびに壁に取り付けてあるパイロンが赤く光を放ち回転する。 おまけにブザー音、監獄には入れられたことはないが、きっとこんな感じの処ではないかと中岡は思い、気分が滅入ってきた。 やがて『診察・談話室』と書いてある部屋へ通されると、ひどい馬面のオールバックの医者が丸椅子に腰掛け待っていた。 机の上には、レントゲン写真を差し込むパネルとモニター8台が整然と並んでいた。

「わざわざ、おいで頂いてありがとうございます。 岩井さんのご両親とは連絡がついたのですが、なにぶん遠方のため、会社でお世話になっている先輩の中岡さんにと、了承を頂いておりまして」 と医者が頭を下げてくる。
「いえいえ、両親から連絡も頂いてますし、あいつは私のかわいい後輩です。 ちょうど連れて行かれる所にも出くわしましたんで心配で心配で、かえってよかったですよ」 中岡の方も頭を下げた。
「まだ搬送されてきて半日しかたってないんですが私の指示の元、強制的に入院、拘束させていただきました」
「あ、先生のご指示があったんですか? 何か警察沙汰でもあったのかとハラハラしていましたよ」 ハンカチを取り出し汗を拭く。
「無理もありません。 ちょうど岩井さんのお隣りがですねぇ、うちの看護士だったんで、状態が悪くなったら強制的に収容しようと話してたんです」
「あぁ、そうだったんですか」
「何せ初めて岩井さんと対面したのが駅の近所の心療内科でね。 うちの姉妹病院で週に3回、私も借り出されてまして、本格的な治療は、今お越しのこの病院しか出来ないもので、聞けば一人暮らし、任意で入院となっても家族の同意がないとどうにもならなかったもので……」
「あいつとしては、運がよかったということなんですね」
「ええ、何よりだったと思います」 そういうと机に向きモニターのスイッチを入れた。 モニターは、横に4台づつ並べられていて、下の7番と書いてあるものだけが映し出されていた。
「今、彼が拘束されている部屋です。 薬でぐったりしていますがうわ言のようにメガネ、メガネとつぶやいていますよ」
「あぁ、あれですねぇ」
「ええ、中岡さん、彼についてどんなことでも結構です。 治療のためと思って、ここ最近の彼の行動をあなたの知っていることだけで結構です。 話していただけませんか?」 医者が覗き込むように中岡を見つめる。
「もちろん、あいつの治療に役立つなら知ってることは、すべてお話しますよ」

「では、原因といいますか、彼が何か精神的にダメージを受けたようなことはありましたか?」
「はい。 もともとあいつは、生真面目で今時こんなピュアな奴がいるかなぁ、と思えるくらい繊細で素直な奴でした。 ちょうど1週間ぐらい前ですか、プレゼンが会社でありましてね。 お客様の前で商品説明を行うんですが一段高い演台でつまずいて転んでしまい、大笑いされてしまったんです。 その後も引きずりましてねぇ、しどろもどろになり、もう見ていられなかったんですよ」
「大勢の前で醜態をさらした、そういうことですね」
「はい、その日落ち込んでたので飲みに連れて行ったんですが次の日、朝から妙な電話があったんです。 見えないんです、モザイクがみんなの顔にかかってて、見えないんです、なんていうから昨日飲みすぎたんだろう? って言ったら、昨日は飲んでません、って言うんですよ。 あれ? って思いましたよ。 ストレスもたまってたみたいだし、ましてや昨日の今日だから会社を休むようにいったんですよ。 それと、医者にも行くように勧めました。 プレゼンで失敗すると結構、精神的に辛いものなんですよ。」
「なるほど、それが私の初診のきっかけとなったわけですねぇ」
「そうだと思います。 私は心配になり、上司に報告して、しばらく寛大に様子を見てもらうようにお願いし、3日間ぐらい休ませてもいいか、と相談したり、いろいろ手をつくしました」
「心優しい先輩を持った彼がうらやましい」 医者は微笑んだ。
「ただ、つまずいて転んだだけなんです。 今までちゃんとやれていただけに、パニックになって…… でもその時点では、このような事態になろうとは……」 悔しそうに握りこぶしをつくった。
「中岡さん、あなたのせいではありませんよ」 
「はい……。 昼にもう一度連絡を入れて様子をうかがったんですが、症状は変わらないというので明日は休むように言いました。 一日置いて、次の日彼が出社していたんで、一安心かと顔を見たら、もう、びっくりしましたよ」
「どうしたんですか?」
「アイマスクを束ねて付けていたんですよ。 メガネだというんです。 しかも、これをしたらモザイクが消えてはっきりと顔が見える、というんです」
「私も拝見しましたよ。 2回目の診察のときに、ちょうど目のあたりに針で開けたような小さな穴が開いてましたよ」
「で、これは危ないな~、と思ったんですがどうしていいかわからず、課長に相談したんです。 とりあえず課長にも彼にあってもらって、そのメガネはつけないように、といってもらったんですがね。 その後も課長とは話し合いましたよ。 様子を伺いながら…… でもそのメガネ以外、仕事は普通にこなしていたもので、大丈夫か、とも思ったんですが課長の提案で、彼に自信をつけさせては? ということで昼から、ちょっとしたプレゼンを会社のスタッフで行ったんですよ」
 医者は興味深そうにして座り直す。
「それで?」
「うまくいきました。 彼も笑顔で自信を取り戻したかにも思えたんですが……」
「演台は、どうしました?」
「会議室ということもあり演台はありませんでした」
 医者が頷く。 「それで?」
「次の日です。 午前中は病院に行くということだったのでそちらへ行ったかと思うんですが」
「来られました。 私もびっくりしましたよ、あのメガネには…… 商品説明まで受けまして……」 苦笑しながら医者は続けた。
「精神病の患者さんというものは、都合のいいように事実を書き換えてしまうころがあるんですよ。 勝手にストーリーをつくって、ありもしないことをあったように話しますし、見えないものが見えたりもします。 非常に妙味深かったんですが人に対して危害を加えるようには見えなかったので彼の場合、強制入院の措置は、あの時点では取らなかったんです」
「あいつは、人に暴力を振るうようなことはないと思います。 元来、優しい奴ですから……」 中岡が辛そうな表情になる。
「中岡さん、辛いでしょうが続けましょう」  医者に促される。
「はい……。 昼前に会社に来て元気そうだったので安心しました。 普通に戻っていたかのように思えたんです。 課長も大丈夫だろうと、昨日と同じプレゼンなら、なんとかなるんじゃないかと彼に任せたんです…… 課長は、鉄は熱いうちに打て、って言う精神の人で…… 今思えば……」
「そのプレゼンは、どうだったんですか?」
「駄目でした。 重要な資料を1枚廊下に落としてしまっていて、届けに行った私が後を引き継ぎました」
「どういう状況だったんです? また醜態をさらしてしまったのですか?」
「いえ、そんなひどいものでもなかったのですが…… 客の野次があったのは事実なんです、それより、内ポケットから例のメガネを取り出そうとして落としたのを見て、課長と一瞬、顔を見合わせ、私が慌てて交代したんです。 あの時は凍りつきそうになりましたよ」
「彼は、その後どうなりました?」
「課長がなだめていましたが、えらく落ち込んでいました。 黙り込んで一点を見つめたまま…… あんな落ち込んでるあいつは、見たことがないくらいでした」
「それから?」
「その後、私が車で彼の家まで送り届けました。 車内でも、何を話しても黙ったままで……」
「彼はお酒は強いほうなんですか?」 
「あまり強くないですねぇ」
「前日の夜はかなり荒れていたみたいで、えらく騒いでいたみたいですよ」
「あぁ、そうなんですか?」
「ウイスキーの空瓶が転がっていたのを搬送した内の者が確認しています」
「それで寝坊して会社に来なかったんですね」
「その日も出勤予定だったのですか?」
「はい、休むなら連絡をくれるように言っておきましたから……昼近くまで連絡がないし、心配で様子を見に行ったら、あのような状況だったんです。 いったい何があったんですかねぇ?」
「部屋で暴れていたんですよ。 大声でわめきながらね。 非番で休んでいた隣の内の者から私に連絡が入りまして、強制入院させようとなったんです。 警察官の立会いのもとでね」
「そうだったんですか」 中岡が静かに頷いた。
「あいつ、どうなります? 元に戻りますかねぇ?」 心配そうに尋ねる。
 医者は、中岡を見つめ、落ち着いた声でこう言った。
「長引きますがこちらも最善を尽くします。 大丈夫、死にはしません」


 真っ白な壁の部屋は、やわらかいクッションのような素材で覆われてていた。
 低いベッドに縛り付けられている彼―― 岩井孝之は、焦点の合わない眼をショボショボさせながら、うわ言の様に繰り返していた。
「メガネ~、メガネがないと見えないよ~、メガネ~」

 


 おわり